茶事のお酒と赤ワイン
堀内議司男(茶道家)
2022.1.14
神様にお供えした食事を参加者でいただく「直会」と、武家社会で正式な儀礼となった「式三献」。この二つの影響を強く受けているのが茶事(茶会)です。その際のお酒の話をいたしましょう。
茶懐石のお酒には流れがある
「直会(なおらい)」とはお祭りなどの神事の最後に、神饌(しんせん)つまり神様にお供えした食事をおろして、参加者でいただく行事です。そのお下がりを参列した人たちでいただく行為を「神人共食(しんじんきょうしょく)」と言い、お酒は重要な役割を担っていました。
かつての貴族の酒宴では盃に満たされたお酒が一座の全員にまわされ、一巡するとこれが一献であり、三献、つまり盃を三回巡らせることが正式な作法とされ、これが後の式三献のルーツとされています。そしてそれぞれのお酒に出されるのが肴です。
室町時代には武士は出陣の時、 打ちあわび、勝ち栗、昆布の三品を肴に酒を三度ずつ飲みほす儀式となります。式三献は武家社会で正式な儀礼として江戸時代まで続きます。神と人、主従間の契りがお酒を介して交わされたのです。
(「武士の時代のお酒のあて 」、「源流は公卿の酒宴にあり」参照)
この直会と式三献の影響を強く受けているのが茶事(茶会)です。特に武家茶道の系譜を引く遠州流茶道(流祖は小堀遠州)にその名残を見ることができます。そもそも茶道は火の神様を囲んでの儀式です。お客様の前で炭をつぐ所作はたんに釜のお湯を沸かす目的だけではなく、火の神様をおろす重要な儀式となります。
懐石の料理の間ではお酒を三献、銚子で出します。最初は冷酒(常温)で木地蓋を使って、椀盛の後の温酒の時は焼物などの蓋に代え、八寸の時の温酒は共蓋を使うことが習いとなっています。そして二献目と三献目の間に徳利でお酒が出されるのが、懐石における酒の流れです。
まず最初に御膳に飯・汁・向付、そして盃が添えられます。盃を添えない場合は飯・汁を食べ終えたら亭主が銚子と盃を持って出てきます。懐石の最初に出されるお酒は神様に捧げたお下がりという意味合いもあって、銚子には冷たいお酒を入れます。寒いからといって決してお燗にしてはいけません。お椀の飯も一文字につけた一口飯。これも神様のお下がりという考えに繋がります。この時の肴が向付です。「酒菜(さかな)」が時代を経るに連れて生の魚に変化していったともいえます。向付を肴にまずは一献巡ることになります。
そして懐石のメインの料理である椀盛を出した後、銚子の蓋を代えて温酒を出します。そして焼物、煮物を肴に二献目が回ります。
やがて銚子が下がり、亭主は徳利と酒呑を持ち出してお客にお酒をすすめます。ここで直会から饗応(無礼講)が始まります。つまり、お酒や酢の物などの進肴などでお客様をもてなす二次会となります。形としては銚子が徳利に変わり、盃が酒呑に変わります。亭主と客、客同士でもお酒を酌み交わします。
饗応の後、また正式な直会へと戻らなくてはいけません。そこで箸洗い(湯に近い薄味のすまし汁)が口直しとして出されます。このままけじめもなくずるずると飲んでいては、三献になりません。銚子と共に八寸が持ち出されます。海の物、山の物を交互にいただき、最後のお酒を盃でいただきます。つまり海の幸、山の幸に感謝し、亭主と客が盃を交わす最後の時間であり神様との最後の供食となります。
このように源流を知っていれば、私はお酒が飲めませんから、不調法ですからと断ることがどんなに罰当たりかということがわかります。だからこそ、下戸の方は銚子と盃で受ける三献は飲めなくても決して断ってはいけません。飲まなくとも口だけは付ける真似事をするとよいでしょう。お酒は空いたお椀にさりげなく移します。
小堀遠州と赤ワイン
最後に松屋会記をご覧下さい。松屋会記とは16世紀から17世紀にかけて奈良の塗師・松屋家の久政、久好、久重、3代に渡って書き残した茶会の記録です。
8月2日晩
小遠江守殿へ 京都 後藤顕乗
久重(二人)
転合庵 茶屋にて 御茶被下
御茶の前に葡萄酒 染付徳利
へぎに猪口三ツ置て出る
この松屋会記の記事は、正保3年(1645年)のもので、大名茶人であった小堀遠州が懐石に初めて赤ワインを使ったということでも有名です。当時としては大変貴重で珍しいお酒です。江戸時代、ワインは禁制品ですので恐らく親しくしていた長崎奉行を通して手に入れたのでしょう。
さて、ここで重要なことは赤ワインを何に入れて出したのかということです。銚子ではなく染付の徳利でした。儀式として大切な三献ではなく、饗応である徳利でもてなしました。つまり無礼講の意味合いも強い宴会タイムに供されました。どんなに貴重で高価な赤ワインでも日本酒にとって変わるような性格のお酒ではなかったのです。
*トップ画面の写真は往時の再現。
この短い会記から読み取れることは、客は顕乗と久重の二人だけ。顕乗は金工家、久重は塗師。そしてへぎ盆に乗せられた猪口の数を見ると3つ。遠州と二人の身分を考えれば、「固いことは抜きにしてこの西洋のお酒を大いに楽しもうではないか。これほど貴重なお酒を君ら二人だけに飲ませるのは勿体無い。俺も一緒に飲むよ」と言うことなんでしょうね。
さて、茶事では五名のお客様の場合、人数よりも少ない異なる酒呑を三つほど出すのが一般的です。お酒は味だけでなく器も同時に楽しみます。それぞれの酒呑を取り替えながら、差しつ差されつ呑むのが正しく楽しいお酒の呑み方です。しかし、日本人の意識の変化にコロナ禍が追い討ちをかけて、残念ながらこのような呑み方も「差しつ差されつ」という艶のある日本語と共に次第に消えてしまう慣習かもしれません。
堀内議司男(ほりうち ぎしお)
御岳山房主人。茶道家。茶名は壷中庵・宗長。遠州茶道宗家で茶道を修行。式正の茶会からカジュアルな茶会まで自由自在に演出。時代を先取りした茶風はマスコミにも取り上げられている。現在は奥多摩・御岳で半農半茶の生活を送りながら、武士の視点・美意識から見た日本文化を探求、再構築をテーマに活動している。御岳山房、音羽・護国寺、吉祥寺、町田、横浜・遊山房、上大岡、静岡・東壽院等で武家茶道・遠州流茶道教場を主宰している。
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今宵は、このお酒で。
東京の水のふるさとの蔵より
澤乃井 純米吟醸 生もと 東京蔵人地元のお酒として、堀内さんが普段から愛飲している「澤乃井」。澤乃井の酒造りの水は2系統あり、その一つが、近代数奇者を代表した高橋箒庵(そうあん)が「東京の茶人は皆この水を使うべし」と激賞した奥多摩の湧水と同じ水脈で、堀内家のお茶を点てる湧水も同じだそうだ。この水が豊かな文化を育てていると堀内さんは語る。
「澤乃井」醸造元の小澤酒造は、元禄15年(1702年)、東京都青梅市で創業。JR青梅線の沢井駅で下車して徒歩数分。都心から2時間ほどで訪問できる。奥多摩は、東京を潤す多摩川の上流に位置する「東京の水のふるさと」だ。蔵のあるところはその昔、豊かな水が沢となって流れる「沢井」村と呼ばれており、その地名に因んで「澤乃井」と命名した。
「純米吟醸生酛 東京蔵人」は、軟水、硬水の二種類の井戸水という、この地域でしかできない「水」の力を利用した酒造りが特徴だ。伝統的な生もと造りで、酒母の仕込み水にミネラル豊富な硬水を使ってクラシカルな酸を生み出し、後半の吟醸仕込みには柔らかい軟水を使っている。
口当たりなめらかで、程よい酸が旨味を引き立たせている。このお酒の魅力は常温で飲むとより顕著に感じる。国内外のコンペティションでも高く評価され、産地イメージを持ちにくい東京の酒蔵の存在感をしっかりと海外にも発信している。
小澤酒造は早くから蔵見学を受け入れており、繰り返し訪れるファンも多い。蔵の近く、多摩川のほとりに広がる庭園「澤乃井園」では、澤乃井の酒はもちろん、わさび漬けや酒まんじゅうなども販売。軽食を取りながらいろいろな酒のテイスティングを楽しめる。お問合せ
小澤酒造株式会社HPhttp://www.sawanoi-sake.comTEL0428-78-8215
文・平出淑恵(酒サムライコーディネーター)
http://coopsachi.jp/
撮影・板野賢治
撮影・堀内議司男