源流は公卿の酒宴にあり
松本栄文(花冠陽明庵主人・作家)
2022.1.7
上杉先生による『武家の時代のお酒のあて』にあるように、室町時代、武士勢力の台頭によって「酒肴」の世界は、「式三献」という酒礼をもって、格調高い料理様式が誕生しました。しかし、こうした酒礼は武家衆だけのものでなく、公家衆(以下、公卿)においても独自の酒礼があり、公卿の「盃三献」こそが武士の式三献の源流にあるといえます。
饗宴での御酒の作法は……
公卿こそ「人の噂話を酒の肴に」飲むのが大好きでしたから、時に足利さんの悪口を言ったり、信長さんを持上げたり陰口をたたいたり、明智さんをそそのかしたり、秀吉さんに驚いたり、德川さんにいじめられたり、長州に鉄砲を撃ち込まれたり……。もう武士の台頭によって踏んだり蹴ったりです。
さて、公卿は、平安時代以降に権勢を誇った「源平藤橘」という4つの氏族に分けることができます。源氏、平氏は皇族から臣籍降下した分流・庶流の氏族で、後に武士社会の礎を築きます。その一方で、藤原氏と橘氏は公卿として天皇に御仕えします。こうした氏族間は勢力争いが激しく、そのため、氏族内の団結を図るために「酒宴」が催され、御酒は最も重要なコミュニケーションツールでした。
例えば、藤原氏の酒宴は、一門の結束を強化する目的で催されました。その古典型の宴のことを「大饗」と呼びます。大饗とは、文字通り大きな饗宴のことで、藤原氏一門から大臣へ任ぜられる者が出ると、その就任祝いである「大臣大饗」を自らの邸宅で催しました。主賓の皇族親王さんをはじめ、藤原氏長者、同族一門などを迎え、主人は御膳を調えてもてなしたのです。
この大臣大饗には作法があります。賓客が着座すると、御酒と肴が運び込まれます。主人がまず盃をとって祝い、次に大宮大夫、そして公卿一同へ盃が巡ります。これが「第一献」。次の二献では主人は盃を受けず、大宮大夫から以下公卿へ。次の三献では一献と同様に主人より盃を祝い、以下公卿へ巡ります。この大臣大饗の盃作法が、室町時代の足利将軍家の所作法に踏襲され、後の「式三献」へと至ります。
大テーブルにご馳走が並んだ
盃三献を祝うと、形式的な宴から一変し、「饗膳」へと移ります。盃三献でたくさんの肴が並ぶのにもかかわらず、饗膳はさらに山海のご馳走で彩られます。
台盤の一番手前には箸と匙、4種の調味料(豆醬、酒、酢、塩)、そして高盛飯(御飯)が置かれ、その奥には4種の塩辛の小鉢が並びます。台盤の左右には山海の「生物」が、左奥にはアワビやタコなど4種の干物が並び、最高の肴が勢ぞろいしました。これに菓子が8種類加わるのですから、なんと贅沢極みの献立であったことでしょう。
このほかに、御汁や羹(あつもの)が用意され、四献、五献、六献と御酒が供されました。こうして夜も深まると饗膳も終盤となり、「穏座(おんざ)」へと陽気に酔いしれるのです。
そして無礼講の二次会へ
穏座とは一言でいえば二次会のこと。饗膳とは別の場所に円座(敷物)を敷き、床座りになる砕けた雰囲気です。穏座は酒宴を最大限に楽しむ時間でもあり、諸太夫が管弦具を持参し、盃を交わす各々が笛や鼓といった楽を奏で、さぞ盛り上がったことでしょう。
一人ずつに御膳が運ばれ、肴8品と〆の薯預(やまいも)粥が供されました。薯預粥とは、甘葛(あまずら)の煎汁で薯預を炊き上げた芋ぜんざいのようなもの。砂糖のない時代は格別なスイーツだったに違いありません。
大臣大饗で用いられた台盤は、長さ8尺(約2.4m)、幅3尺3寸(約1m)、高さ1尺5寸5分(約47cm)と極めて大きなもので、主に向かい合わせに二人用として用意されました。兀子(ごっし。脚付きの腰かけ)に着座することから、当時は唐式(中国ブーム)が浸透していたことがうかがえます。
平安時代は実に面白いものです。平安朝前期は、奈良朝文化から受け継いだ中国文化が色濃いものの、後期以降は中国文化に大和民族独自の価値観が融合しはじめ、台盤という大きなテーブルを複数人で囲む唐式から、日本古来の「銘々膳」形式へと回帰します。銘々膳では小さな膳に料理を分載させることで、膳の数が6つや8つとなり、床直の胡坐(あぐら)へとなりました。
これが、後の武士社会で確立した「本膳料理」の礎となったわけですが、大和民族は他民族の文化を取り入れながらも日本風に融合させた意味で、まさに「大きな和」を問ずる民族なのだと考えを新たにいたします。
松本栄文(まつもと さかふみ)
「花冠陽明庵」主人、作家、食品学者。「日本文化を愛でる会」を主宰し、食の専門家からなる「日本食文化会議」を発足するなど、日本の伝承・伝統文化の普及に努める。料理本のアカデミー賞と称される「グルマン世界料理本大賞」において、著書『日本料理と天皇』が殿堂受賞、及び『SUKIYAKI』『1+1の和の料理』『お椀ひとつで一汁一菜 雑煮365日』がグランプリを受賞。
http://matsumoto-sakafumi.jp/hanakanmuri/
今宵は、このお酒で。
創造と革新で京の日本酒文化を支えて
月桂冠 特撰伏見(京都)を代表する蔵「月桂冠」。日本酒の蔵は全国に1,300以上あり、中小がほとんど。蔵数の最多を誇る新潟県には90以上あるが、月桂冠の生産量は新潟県全ての蔵のそれに匹敵する。それほどの規模でありながら、よい酒造りを目指す「品質第一主義」は日本酒業界全体に共通するのだと折々感じさせてくれた、大手の蔵のひとつだ。
月桂冠は、初代大倉治右衛門が1637年(寛永14年)、本社を構える伏見に酒屋を開いたのが始まり。江戸時代、伏見は大坂、京、江戸を結ぶ交通の要衝として栄えた。酒の需要も高まり、酒蔵は1657年の時点で83軒を数えた。ところが頻繁におこる火事や発酵の知識がないための酒の腐敗などで1785年には28軒にまで減り、鳥羽伏見の戦い(1868年)でさらに減ったという。
そんな中、月桂冠を飛躍的に大きくしたのが明治期の11代目当主、13歳で家業を継いだ大倉恒吉だ。「樽詰め」が市場の主流だった中で「びん詰め」に力を注ぎ、生産量を100倍にも拡大。1909年には清酒メーカー初の酒造研究所を設立、「防腐剤なしのびん詰清酒」を初めて開発し、鉄道の普及に対応して「月桂冠」を全国に広めていった。
その後、1989年に米国、2011年に上海に進出。米国月桂冠からは、米国内のほかカナダ、南米、欧州、アジアなどに清酒を供給し、日本からの輸出との両輪で、現在14代目の大倉治彦社長がグローバルな経営を展開している。また、2018年は、世界最大規模のワインコンペティションSAKE部門のグレートバリュー賞(*)で「月桂冠 特撰」が受賞するなど、大手の蔵として日本を代表する世界発信も果たした。
「月桂冠 特撰」は、上質の原料米をていねいに磨いて、低温でじっくり醸し、適度の熟成で香味を調えた本醸造酒だ。優雅な香りと上品でふくらみのある風味により、料理の味を邪魔せず調和をもたらすと、かつての「特級」の時代から現在に至るまで、地元・京都の料亭などでも多く採用されている。
*720ml換算で10万本以上を生産し、日本での小売価格1,000円以下に授与されるお問合せ
文・平出淑恵(酒サムライコーディネーター)
http://coopsachi.jp/